ことの発端は、
「久しぶりに温泉入りたいな」
と私がぽつりと呟いた言葉だった。
雲雀さんはそれに目敏く反応し、あれよあれよという間に手配を済ませ、スケジュールをあけてしまった。
もし私の独り言が「イタリア観光したい」だったら、彼は何も聞かなかった振りをしていただろう。
そんなこんなで車から降りると、旅館の前では大勢の仲居さんがずらりと並び、さらには支配人やマネージャーのような風貌の人まで深々と頭を下げて待ち構えていた。
「きょ、恭弥さん!あなた、なんて言って予約したんですか!?」
「別に。全館借りるって言っただけだけど」
何食わぬ顔で歩き出す彼に唖然とする。
人払いはいつものことなので、もう何も言うまい。
熱烈な歓迎に恐縮しながら、先行く雲雀さんを追いかけた。
ガラス戸を開ける音に合わせて、湯船に浸かっていた雲雀さんがこちらを仰ぎ見る。
「何してるの、早く来なよ」
外気に曝された眩しい素肌に思わず目を奪われていたところを、元凶である本人に催促される。
一緒に入浴するのはもう何度目だか忘れたけど、やはり慣れないものだ。
体に巻いたバスタオルを握り締め、そろりと片足を入れた。
「は〜〜気持ちいい…」
二人で肩を並べ、じんわりと染み入る温泉を堪能する。
人払いしてるだけあって、口を閉ざしてしまえば近くでせせらぐ川の音と、鳥のさえずりだけしか聞こえてこない。
「結構、川の音が近いですね」
湯に浸かったままちょこちょこと湯船の端へ歩いていく。
縁から身を乗り出すと、すぐ真下を小川が流れていた。
綺麗なエメラルド色だった。流れに身を任せ、葉が流れていく様が美しかった。
「」
名を呼ばれ我に返る。つい見入ってしまった。
恐る恐る振り向くと、不機嫌そうな雲雀さんが圧を飛ばしていたので、おずおずと元の場所に戻った。
しばらく川の水音だけが響く。
顔色を伺うように、ちらりと横を見ると目が合った。
そして顔が近付き、唇が触れた。
突然のことに驚いていると、雲雀さんが不思議そうに首を傾げる。
「何?してほしかったんじゃないの」
「ち、違いますけど」
とりあえず機嫌が直っていたようでよかった。
そう安心したのも束の間、無意識に固く握り締めていた手を大きな手に包まれ、ぴくっと肩が跳ねた。
「君はいつもそうだよね。裸になると静かになる」
「だって……」
「やることはやってるのに」
「!!」
かあああと一気に顔が熱くなる。なんてこと言ってるんだこの人。
雲雀さんは肩が触れ合うほどに距離を詰め、耳元で囁く。そんなことすれば、ますます私が縮こまるのをわかっていて、だ。
「ちょっ、ちょっと…!」
「ここってカップル用のものなんだろ?書いてあった」
書いてあったって…るるぶか?いや今時はネットだろう。
なんてどうでもいいこと考えている内に、肩に廻された手は肌に沿って下りていき、腰のラインを撫で始めたのだった。
「もう、上がります!」
勢い良く立ち上がり、強行手段に出る。
鼻で笑われたか気にせず脱衣場へ向かった。彼は面白がってやってるのだ。
まだドキドキうるさい心臓を宥めながら、ガラス越しに雲雀さんを見た。
ぼんやりと遠くを見つめる後ろ頭が丸くて可愛いと思った。
夕食は夕食で、毎回出来立てを料理長自ら運んできてくれて、私の方がおろおろしてしまった。
雲雀さんはと言うと、普段通りの無表情で食べていて、住む世界が違うなあと庶民的な感想を持った。
気合いの入った料理の数々のおかげで、苦しいくらい満腹状態だ。
すぐには歩けそうにないので、のんびりと館内のお土産屋さんを見ていた。
「欲しいの?」
いつの間にか隣に来ていた雲雀さんが、私に摘ままれているストラップを覗き込む。
ご当地のゆるキャラなのか、間抜けな表情をした蛙がインパクトのある極太眉を下げて困り顔をしていた。絶妙に可愛くない。
雲雀さんは何か一言述べようとしていたが、適切な言葉が見つからなかったのか、眉を寄せて神妙な顔で固まっていた。
それがなんだか可笑しくて、小さく吹き出して笑ってしまった。
「何?」
「いえ、要りませんよ」
元あった場所に戻し、ふらふらと店内を回る。
雲雀さんは蛙君をじっと見つめ、「変なの」と呟いた。
上から聞こえる寝息が鼓膜を静かに揺らす。
彼の腕の中で胸板に頭を預け、その規則正しい音にただ耳を傾けていた。
体液を流し、温泉に浸かった後のためか、着流し越しに上気した肌と甘い香りを感じ、心臓が大きく鼓動する。
あんなに散々いじめるくせに、事後は大切なものを扱うように優しく包む。
閉じ込めて離さないようにして、眠りに落ちる。
それら全てが愛しく思う。
こうして温泉のために日本に帰国したことも、スケジュールをあけてくれたことも。
雲雀さんの背に腕を廻し、1人顔を綻ばせる。
眠るのはもう少し後になりそうだ。
「すみません!お待たせしました!」
助手席に乗り込み、いそいそとシートベルトを締める。
それを確認して雲雀さんはアクセルを踏んだ。全従業員に見送られ、車が発進する。
紙袋をガサガサ開け、ポリ袋の封を開ける。
ハンドルを握り、前を見据える雲雀さんは特に何も言わない。
「あの、これ!」
信号待ちで停車したところで、買ってきたものを差し出した。
あの困り顔の蛙と再び対面し、彼はあの時と同じように神妙な顔をした。
「無事帰る、みたいな」
臭いダジャレに自分でも苦笑しながら、雲雀さんの手のひらに蛙君を落とす。
しばらく蛙君と見つめ合った後、車内のフックにストラップを引っかけた。
信号が青に変わり、車が走り出す。蛙君が困った顔で大きくゆらゆら揺れた。
「はは、気に入りました?」
「可愛くない」
眉を寄せて呟く。纏った空気から察するに、まあ気に入ってくれたようだ。
思わず頬が緩んでにこにこしてしまう私だった。